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バーチャルリアリテイーと物質的リアリテイー


バーチャルリアリテイーという言葉が、世間で聞かれるようになってから、どれくらいの年月が経つだろう。


僕の記憶では、僕らの学生時代よりちょっと前くらいからだろうか。


だから30数年前あたり。


では、この言葉がどんな文脈で使われていたか。


ちょうどファミコンなどのゲームが流行っていて、子供が外で遊ばなくなった時代。


開発によって、野山も池もなくなった。川もコンクリート仕立て。


外で遊んでケガとかもしない。


バーチャルなゲームの中に子供が閉じこもって、現実というリアリテイーから学習できなくなっている。


だから、人の痛みもわからないような人間が出来上がる、と言った論調だったように思う。



最近では、インターネットの世界が広がり、デジタルテクノロジーは、さらなる進歩の道を驀進中だ。


コロナ禍もあって、バーチャル商品の需要も急騰している。


人間はますます現実のリアリテイーから遠ざかっていくかのようである。



ただ、僕は何も、こういうご時世を嘆いて、こんなことを言っているのではない。


この流れは、時代の趨勢であろうし、だれにも止めることはできないだろう。


そもそも、バーチャルリアリテイーが悪い、ということでもない。



バーチャルな世界というのは情報だけの世界のことを言うのだろう。


娯楽なら、映画、小説、レコードやCDで聞く音楽、もバーチャルリアリテイーだ。


最近では、これらのものもすべて、ネット配信で楽しんでいるのだから、今は、バーチャルリアリテイーの画一化が進んでいる時代、と言えるかもしれない。


昔の映画なら、物質的なリアリテイーである映画館に行ってバーチャルな世界に浸る。


本としての小説も、紙という物質と、バーチャルな情報が融合したものだ。


あのページをめくる感じや、紙の匂いが好きという人もまだまだ多い。


音楽産業は、やはりコンサート抜きには考えられないそうだ。


人は集って特別な体験をすることに、価値を置くのはこれからも変わらないらしい。



ところで、彫刻というのは、バーチャルと、物質の融合したものの代表選手だと言っていい。


石や木は、ちょっとやそっとじゃ思い通りにならない、物質リアリテイーの最たるものだ。


そこに、夢や妄想と言った、バーチャルな世界を溶け込ませるのである。


ところがバーチャルな世界と物質はあまり相性が良くないのだ。


空想にふける人は現実に弱い。それと同じだ。


僕なんかは、どうも、もともと現実に弱い。


そういう人が、石に向き合って泣くような思いをすると、彫刻ができるのである。



2021/7/19





宝島 2004 安山岩



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