僕たち人間は、いや人間に限らず動物も植物も物も、空間に位置を占めている。この空間において身を隠すことはできない。
それと一緒で、僕たちの心もある種の空間の中に位置を占めている。ここである種の空間と言ったのは、それは僕たちの体が占めるような物理空間とは違う空間にはなりそうだということだ。
この空間を心の空間と呼ぶことにしよう。僕たちはこの心の空間に投げ出されている。この空間からどこにも隠れることはできない。
実は心の空間と身体が属する空間は繋がっていて、一体として扱われるべきものだ。そして僕たちが他人と会うときには、自分の心身の空間と、他人の心身の空間との関係性が生じる。あるいは何人かのグループの中にいる時、あるいはもっと大きな組織の中にいる時にもそれぞれ関係性が生じる。
そしてその関係性の中において、自分の心身の位置を規定することがいわゆる表現ということになる。
人間はこの心身の空間から逃れることはできないから、ともかく必死になって自分を規定しようとする。自分の安心できる場所を探しているといってもいいかもしれない。
例えば一見他人をよく批判する人がいる。しかしこの人が実際にやっていることは、空間の中に違いを作り出して、他人が自分の意見を表現する場を与えているということがある。つまりこの人は愛を表現しているのだ。
もっと言うと、自分の愛を表現するために、心身の空間に自分を表現するために、必死になってこの行動にたどり着いたと言えるのである。なぜなら、自分は心身の空間から逃れることはできないのだから。
人間はだれしも自分の愛を表現したいと思っている。なぜなら人間はみんな愛の当体だからだ。
ただ、その愛の表現の仕方は人それぞれだということだろう。
人を批判したくないという人もいる。人のことをあれこれ言うのは嫌だし、そういう場所にいるのもいや。こういう人はなかなか違いを作り出すのがむつかしい場合がある。事なかれ主義に陥ることもある。人に理解されづらいというのもあるだろう。
しかしこういう人にも愛がないというわけではない。むしろ愛にあふれているのだ。この人なりに一生懸命なのである。なぜなら人は心身の空間から逃れることはできないから。そして人は愛を表現したいと思っているのだから。
2022/5/11
Self 2002年作
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