四大菩薩 私の彫刻思想 再び富士山へ

最終更新: 10月13日


一人の人間には、人間としての力がすべて備わっています。


言ってみれば当たり前のことですが、私たちはこの事実に向き合うことは、なかなか少ないかもしれません。


四大菩薩とは、法華経の従地涌出品の中で、釈尊が滅後の弘教を託す、地涌の菩薩の四人のリーダーのことです。


それぞれ上行菩薩、安立行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩といいます。


四人の菩薩は、実は仏の力用の四つの側面を、象徴的に表しています。



上行菩薩は無限の向上心、上へ上へと向かう力。


安立行菩薩は安定と平和。


無辺行菩薩は差異を超えて他者とつながる力。


浄行菩薩はあらゆるものを浄化する力です。


ところで、


今回も彫刻についての、私の考え方を書かせていただくのですが、、


上記のような内容が登場するのは、私が、仏教の法華経の信仰を30年以上続けてきたうえでの実感がベースになっているということを、最初に申し上げておきます。



法華経への信仰とは端的に言って、自分の無限の可能性を信じることともいえましょうか。



北斎や光琳、等伯、本阿弥光悦などの芸術家も法華経の系譜に連なります。


数回前に同じく、私の彫刻思想として富士山について書きました。私はそこで、てこでも動かない安定感とともに、常に上昇していく飛翔感が同時に内包されているのが彫刻のフォルムであるといいました。(ブログ 「富士山 私の彫刻思想」 を参照ください。)


私は20年ほど前から、彫刻のフォルムの本質を「深い次元のバランス」と表現してきましたが、10年ほど前に富士山の着想を得、これを刷新。



そして、私が四大菩薩のそれぞれの特質と富士山の発想に共通点を見つけたのは、ここ数年前になります。

察しのいい方は、もうお分かりと思いますが、ここでは上行菩薩と富士の飛翔感が対応し、てこでも動かない安定感は、安立行菩薩に対応しています。


私自身の法華経への信仰への体験が、ベースになっていると書きましたが、これら富士山も四大菩薩も、多少なりとも私の内的体験の表現ということで通じています。そうでなければ、空理空論になってしまいます。


上行菩薩の向上心も、富士の飛翔感も、安立行菩薩の安定も、富士の安定も、現実の力のことです。それは根本的には生命力のことです。



彫刻を作るには生命力が必要です。


そしてさらに彫刻がフォルムの中にこの力を持つとき、これを観る人、触れる人に、そのような力を与えるということに他ならないのではないか、と思うのです。それを実現している優れた彫刻は古今東西歴史の中に無数にあります。


さて四大菩薩には、さらに、無辺行と浄行があります。


無辺行とは、辺が無い、つまり堺がないことです。イデオロギーや文化、宗教の違いを超えるということです。いわば、人間としての共通点を見いだす力です。


このように人々を結び付ける、無辺行的な力は、本来アートの力として古来より知られています。昨今、アートの力はビジネス界などでも、注目されるようになっってきました。分断を超えて人々を結び付ける力こそがアートの力です。



「差異を超えて」 2010年 御影石 木  95x40x140cm



そして浄行とは心を洗う、心を清めることです。見たり触れたりする人の心を清らかにする彫刻ができれば、それはなんと素晴らしいことでしょうか。


少しばかり私たちの生活に引き当てて、言葉を探してみれば、感動という言葉が思いつきます。心から感動するということは、心を清めるということに通じるのではないでしょうか。


私は、この四大菩薩の四つの特質を彫刻が担うことは可能だと思いますし、事実、先にも述べたように、たとえ特定の宗教とは無関係でも数えきれないほどの実例があります。



音楽やダンスなどもそうだし、広く言えば、人間の営み全般にわたります。



仏教そして法華経の教えの目的から言えば、そもそも四大菩薩の力は、一人の人間のふるまいの中に発揮されていくものです。


さて、以上のような考えからも、彫刻は、一人の人間の可能性ほど望むべくは無いにしても、それに類する働きはできるのではないか、と思うのです。


ところで、表題に「再び富士山へ」と書きましたが、それは富士山にもおのずと四大菩薩の働きが納まっていることに気づくからです。



上行、安立行については前述の通りです。


無辺行菩薩の差異を超えて人々を結び付ける、ということで言えば、富士を愛する海外の人々は多いですね。江戸のアートを通じてジャポニズムを巻き起こし、新しい文化も作りました。富士は心の垣根を越えていきます。


浄行菩薩の心を洗う力ほど、富士山にふさわしいものはないでしょう。富士を観て感動しない人はいません。

これで富士山の中に四つの働きがそろいました。四大菩薩、そして富士山のような彫刻ができるとすれば、それは私のはるかな理想です。


最後に、


四大菩薩としての力に表出される仏とは、人間一人一人の命の内実、生命そのもの、そして無限の可能性であることが、法華経のメッセージであることを記しておきたいとと思います。

ちなみに、仏とは、如来(にょらい)ということもあり、本心ということもあり、また現(うつつ)ということもあります。


如来とは如如(にょにょ)として来(き)たると読んで、瞬間、瞬間の生命の躍動を示します。


本心とは、自分の本来の姿ということです。仏とは自分自身の本来の姿という意味です。



また現(うつつ)とは夢に対する言葉で、自分が仏である状態では目が覚めているということです。自分の本当の姿(仏)に迷っているのは夢を見ている状態です。イリュージョンです。本心を失っている状態です。



実はこれを仏法では地獄といいます。地の底に沈んで拷問に合うというのではありません。本来の自分の姿を見失って苦しんでいる状態が地獄です。


本来の自分には四大菩薩の力も自然と備わっているということです。

本当はすでに備わっているのですが、本来の自分自身に気づけば、四大菩薩の力も自然と発揮されるといってもいいでしょう。



今日は長文になりました。

お付き合いくださり、ありがとうございました。



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